ちゃとまに帝國 制作・著作 KSK-PROJECT

時代を変えたこのアーティスト

☆星の数ほどのアーティストの中から、時代のエポックになった人たちを選んでみました
日付はトップ10入りした週(オリコン調べ)

 
 

●森 進一
(1968年1月4日「命かれても」で初登場)

♪青春歌謡やエレキブーム全盛のさなか、北島三郎畠山みどり都はるみ水前寺清子バーブ佐竹らとともに活躍した演歌の第一人者。世間の度胆を抜いた強烈なハスキーボイスは当初キワモノ扱いされたが、その人気は演歌界でも群を抜いていた。夜、盛り場、ネオン…といったオンナ心の悲哀をせつせつと唄い、ライバル五木ひろしクール・ファイブ、同じ“ため息路線”の青江三奈藤圭子八代亜紀とともに演歌界をリード、現代演歌への道筋を確立した。
 
 

 
 

●ザ・タイガース
(1968年1月18日「君だけに愛を」で初登場)

♪数あるGS(グループサウンズ)の中でも人気、セールスとも他のバンドを圧倒していた。とくにジュリーことボーカル沢田研二の人気は凄まじく、その後ソロとなり歌謡界に君臨する大スターとなる。このグループの人気の凋落とともにGSそのものが下火となったが、ロックと歌謡曲を融合したGSサウンドは「恋の季節」(ピンキーとキラーズ)や「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)など、その後のGS歌謡やポップス歌謡の源流となってゆく。
 
 

 
 

●ザ・フォーク・クルセダーズ
(1968年1月18日「帰って来たヨッパライ」で初登場)

♪レコードの早回し手法によるこのデビュー曲は、フォークソングを一気にメジャーに変えた。解散後もメンバーは「風」(はしだのりひことシューベルツ)、「白い色は恋人の色」(べッツィ&クリス)、「花嫁」(はしだのりひことクライマックス)、「戦争を知らない子供たち」(ジローズ)、「あの素晴しい愛をもう一度」(加藤和彦と北山修)などエバーグリーンな名曲を次々と生み出し、メンバーの加藤和彦はその後、伝説のロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成、海外でも成功をおさめた。
 
 

 
 

●欧陽菲菲(オーヤン・フィフィ)
(1971年10月18日「雨の御堂筋」で初登場)

♪アジアでの評価はそれほどでもないが、その後乱立する“アジアの歌姫ブーム”の礎を築いたパイオニアといえる。台北のナイトクラブ出身、カタコトの日本語でメディアに登場するやトム・ジョーンズばりのボディ・アクションとパワフルな歌声でヒットを連発。その活躍は香港のアグネス・チャンや台湾のテレサ・テン、韓国の李成愛チョー・ヨンピルといったアジア圏歌手をはじめ、BoA東方神起など2000年代以降のK-POPムーブメントにも受け継がれる。
 
 

 
 

●天地真理
(1971年11月22日「水色の恋」で初登場)

小柳ルミ子南沙織とともに“新3人娘”と呼ばれていたが、その人気はケタ違いであった。透明感あふれるファルセット・ヴォイスと愛らしい“真理ちゃんスマイル”でヒットチャートの首位を独占。アイドルといわれる女性歌手のルーツとなるが、その人気は74年の山口百恵の台頭で影を潜めることになる。楽曲、スタイルはのちの桜田淳子松田聖子らに継承されていったが、当初はアイドルというより本田路津子のような歌謡フォーク路線を目指していたという。
 
 

 
 

●よしだたくろう⇒吉田拓郎
(1972年3月13日「結婚しようよ」で初登場)

♪フォークソングが市民権を確立できたのも、この方がいたからでしょう。いわゆるテレビ出演拒否の先がけで、のちにブレイクしたフォーク歌手が軒並み追随していった。デスマス調の歌詞、ヨナ抜き音階(注1)を多用した語り口調のメロディーは当時新しく、職業作詞家、作曲家にもカナリ影響を与えていたように思う。叙情派フォーク(歌謡フォークの一種)のパイオニアでもあり、72年大ヒットした「旅の宿」は南こうせつとかぐや姫「神田川」、りりィ「私は泣いています」、グレープ「精霊流し」へ受け継がれるエポック・ソング。
 
 

 
 

●ガロ
(1973年2月5日「学生街の喫茶店/美しすぎて」で初登場)

♪世間的な評価は今ひとつだが、ロングヘアーにトンボメガネ、ロンドンブーツといったフェミニンなヴィジュアルは、当時のフォークグループとしては異端であった。私小説的で繊細な詞の世界観、ハイトーンヴォイスで奏でる洗練されたコーラス・ワークは、後のチューリップオフコースアルフィーらへと受け継がれ、ニューミュージックのパイオニアともいえる。あまりに早すぎたため、時代が追いつく前に燃え尽きてしまったような…
 
 

 
 

●キャロル
(1973年9月10日「ファンキー・モンキー・ベイビー」で最高57位)

♪疾走感あふれるメロディーに今では当たり前となった英語混じりの歌詞、リーゼント&皮ジャンというスタイルも斬新だった。ロックン・ロールの大衆化に貢献し、歌謡界にも多大な影響を与えたが、ヴィジュアル先行のこのジャンルはなかなか日本には根付かない音楽かもしれない。のちにソロとなった矢沢永吉がバラード志向だったのはそのせいかも…。当時はフォークソング全盛のさなか、セールス的にもこの「ファンキー〜」が最高57位と今ひとつだったが、75年の解散後、“永チャン”こと矢沢永吉はカリスマ的人気を博した。
 
 

 
 

●山口百恵
(1973年10月1日「青い果実」で初登場)

♪デビュー曲「としごろ」の正統派アイドル路線がいまひとつで、この2ndシングルから突如「性春路線」(!)に転向。以後、ライバル桜田淳子の“陽”に対するマイナー・イメージに徹した音作りは、それまでの華やかなアイドルとは一線を画してゆく。76年ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童とタッグを組んだ「横須賀ストーリー」の大ヒット以降、ロックやニューミュージックにも果敢に挑戦し、アイドルという概念を一気に前進させた人。人気絶頂の中での結婚、引退は社会現象になった。
 
 

 
 

●荒井由実⇒松任谷由実
(1975年11月24日「あの日にかえりたい」で初登場)

♪不協和音を多用した斬新なコード進行と、思春期特有の繊細な歌詞は当時衝撃的で、デビュー前から才能を高く評価されていた。彼女の登場でそれまでの叙情派フォークが一掃され、ニューミュージックという新たな時代が幕開いていったようにも思う。80年代のアイドル・ポップスから現在のミュージック・シーンに至るまで、音楽業界に多大な影響を与えた人。ジャジーな雰囲気の本作はのちの「シティ・ポップ」ブームのルーツともいえる。
 
 

 
 

●ピンク・レディー
(1976年11月29日「ペッパー警部」で初登場)

♪従来の歌謡界では考えられなかった、お色気たっぷりの衣装と派手なアクションで小学生から大人に至るまで大旋風を巻きおこした二人。山本リンダフィンガー5でヒットを飛ばした阿久悠&都倉俊一コンビによる遊びゴコロあふれる楽曲は、5曲連続ミリオンセラーという偉業を成しとげる。曲調は当時ハヤりのディスコ歌謡にクラシックの要素も見受けられるが、サウンドやメロが斬新すぎて、未だにジャンル分けできないアイドルの枠を超えたスーパー・デュオ。
 
 

 
 

●中島みゆき
(1977年11月14日「わかれうた」で初登場)

♪音楽的に流れを変えたというよりも、ユーミンと違い吉田拓郎らのフォーク・ソングの流れを踏襲している。やはりこの人の凄いところは“歌詞”の世界観でしょうか。当時「暗い…」と言われた女性フォーク歌手は多くいたが(浅川マキ、中山ラビ、山崎ハコ、森田童子など)、商業的に成功したのはこの人だけである。低迷期の86年頃から歌唱法をガラリと変え、それが後の「地上の星」の大ヒットへつながる“新生・中島みゆき”誕生へと至ったような気がする。
 
 

 
 

●サザンオールスターズ
(1978年9月11日「勝手にシンドバッド」で初登場)

♪吉田拓郎とはまたちがう、旋律にウマくのせた早口でまくし立てる独特の歌唱法は、後発の佐野元春とともに日本のロック・シーンに大きな影響を与えた(当初コミックバンドと思われていたが…)。往年の歌謡曲を意識したようなキャッチ―なメロと意味深な歌詞が音楽ファン以外の幅広い層にも受け入れられ、デビュー以来じつに40曲以上のシングルをTOP10に送り込んでいる。
 
 

 
 

●山下達郎
(1980年5月26日「RIDE ON TIME」で初登場)

♪メロディやサウンドはいわゆる既成のフォークではなく、ユーミンや南佳孝、大滝詠一など新興ポップス勢の流れを組むが、その洗練された都会的なサウンドが2020年代の世界的なシティ・ポップブームの高まりとともに再評価された。当初リゾート・ミュージック的な扱いを受けていたが、89年暮れ大ヒットした「クリスマス・イブ」など数多のメディアタイアップにより、マスメディアにほとんど姿を見せず息の長い活躍を続けている。
 
 

 
 

●イエロー・マジック・オーケストラ
(1980年6月23日「テクノポリス」で初登場)

♪テクノのルーツは70年代半ばに登場したドイツのクラフトワークといわれるが、YMOの無機質な電子サウンド&東洋的なメロディーは、インベーダーゲームやピンク・レディーに影響を受けた日本のキッズらにこよなく支持されていたように思う。メンバーの髪形を真似たテクノカットが大流行し、テクノポップといわれる音楽性は海外でも高く評価された。当時は一過性のブームと思われたが、TM NETWORK電気グルーヴなどフォロワーの登場で、ユーロビートやダンス・ミュージックへと進化していった。
 
 

 
 

●松田聖子
(1980年8月11日「青い珊瑚礁」で初登場)

♪天地真理で幕をあけ、山口百恵、ピンク・レディーと続いたアイドルブームも終息しかけた80年代初頭、突如現れたのがこの人。ユーミンや八神純子を意識したようなニューミュージック系の楽曲、伸びのある天性の歌唱力は、それまでの古いアイドル歌謡とは一線を画していた。同期の田原俊彦とともに80年代のアイドル・シーンに新風を巻き起こし、歌詞、楽曲、髪形に至るまで、その後の80年代アイドルのルーツになった。
 
 

 
 

●おニャン子クラブ
(1985年7月29日「セーラー服を脱がさないで」で初登場)

♪ローカル色の強い「夕やけニャンニャン」という番組でアシスタントをしていた半シロウト集団が国民的な人気を博すまで、テレビ画面を通じて逐一伝えられる状況はある意味ドキュメンタリーであった。既成のアイドルとは異なるセミプロ意識、公開オーディション、それに矢継ぎ早のリリース展開は、体力の消耗しつつあったアイドル産業を増幅させ、そして一気に終焉へと導いていった…。彼女らのノウハウを活かしたモーニング娘AKB48など、のちの大所帯アイドルのパイオニアともいえる。
 
 

 
 

●尾崎 豊
(1985年11月4日「DRIVING ALL NIGHT」で初登場)

♪マスメディアにはほとんど登場せず、陰のある写真が多く当時から謎めいた存在だった。最近はバラードばかり注目されているが、ステージを所狭しと駆け回り、飛び降り骨折までしていた…れっきとしたロック歌手である。若者のリアルな心情を綴った楽曲は同世代を中心に熱狂的に支持され、「若者の代弁者」「教祖」「カリスマ」などと称された。92年の他界後も、いまなお語り継がれる伝説のアーティストである。
 
 

 
 

●BOØWY
(1986年10月20日「B・BLUE」で初登場)

♪当時はアイドル全盛でロックバンドは売れない時代だったが、歌謡ロック的なわかりやすいメロと“ビートロック”といわれるサウンドがロックキッズらに急速に浸透。ロックのマイナーイメージの払拭にも貢献し、おニャン子一色のヒットチャートで「マリオネット」が1位になったときは驚いた…。ブレイク直後の解散発表も前代未聞で、のちのバンドブームの火つけ役ともいえる存在。のちのX JAPAN、GLAYなどヴィジュアル系バンドにも多大な影響を与えた。
 
 

 
 

●THE BLUE HEARTS
(1989年2月13日「TRAIN-TRAIN」で初登場)

♪セックス・ピストルズに影響を受けた日本語パンクは70年代後半から台頭してきたが、いわゆるヒットチャートに顔を出したのはこのバンドがお初。インディーズという言葉が注目を浴びたのも、このバンドの成功がキッカケだったように思う。単純なメロディ&コードに“やさしさロック”とよばれる歌詞を乗せるスタイルは、のちのモンゴル800GOING STEADY(銀杏BOYZ)といったメロコア系アーティストらに継承されていった。
 
 

 
 

●小室哲哉
(1989年11月6日「RUNNING TO HORIZON」で初登場)

♪もともとTM NETWORKのキーボーディストだった彼は、アーティストとしてよりもコンポーザーとしてその類稀な才能を開花させていく。YMOのテクノ・ポップをルーツとしたダンスサウンド、転調を多用した独特のメロディ&コード進行(注2)は、86年の「My Revorution」(渡辺美里)の大ヒット以降、TRF安室奈美恵、自ら参加したglobeのプロデュース・ワークで時代の寵児となり、その後一大勢力となるエイベックスの浜崎あゆみEvery Little Thingなど数多のフォロワーを誕生させることになる。
 
 

 
 

●フリッパーズ・ギター
(1990年5月 「恋とマシンガン」チャートインせず)

♪ドラマ主題歌「恋とマシンガン」が最高17位…と現役時代は今ひとつだったが、いわゆる渋谷系アーティストのルーツ的存在。解散後ソロで活躍した小沢健二Corneliusオリジナル・ラヴピチカート・ファイヴらの成功によって再評価され、その都会的なサウンドは今なお多くのアーティストに影響を与えている。現在でもCMに使われるほど楽曲は洗練されていたが、折りしも当時はバンドブームのさなか、音楽シーンの中では完全に異端であった。
 
 

 
 

●B'z
(1990年6月4日「BE THERE」で初登場)

♪生音にこだわるバンドブーム全盛のなか、デジタルサウンドで颯爽と登場した彼らのサウンドは画期的だった。当初はTM NETWORKの弟分的存在だったが、キャッチーなメロと迫力あるボーカルスタイルが大衆の心を捉え、ミリオンシングル15曲&アルバム18枚にも及ぶ“前人未到の大記録”を打ち立てた。必要最小限のメディア露出とタイアップに伴うヒット戦術は、のちに隆盛を誇るビーイング系アーティストの先がけともいえる。
 
 

 
 

●岡村孝子
(1991年6月3日「Good-Day 〜思い出に変わるならば〜」で初登場)

♪シングルヒットこそ稀少だが、1987年の「夢をあきらめないで」(50位)はその後ミリオンヒットを連発するJポップ・シーンの方向性を決定づけたエポックソングである。いわゆるガンバレソングといわれるポジティブな詞、パッヘルベルのカノン進行をベースとした良質なポップ・サウンドが若い女性に支持され、90年代のKAN槇原敬之ドリカムミスチルに始まるJポップブームへの布石となった。
 
 

☆[注1] ヨナ抜き音階(ヨナ抜き長音階)…ド(1)を基調として、ファ(4)とシ(7)を抜いて作った曲。長調にも短調にもなる珍しい音階で"ペンタトニック"ともいわれ、これで作曲すると明るさの中にも哀愁が生まれる。おもな楽曲に「お富さん」「王将」「お座敷小唄」「函館の女」「港町ブルース」「男はつらいよ」「ピンポンパン体操」「女のみち」「ビューティフル・サンデー」「北国の春」「香水」など昔から日本の演歌、童謡などに多用されるメロディ。

☆[注2] '80〜90年代に小室哲哉が多用したので「小室進行」(6451進行)ともいわれるが、フランス・ギャル「夢みるシャンソン人形」など60年代のフレンチポップスやシャンソン界隈から派生してきたと思われる日本人好みの哀愁感あるコード進行。おもなヒット曲に「愚図」「言葉にできない」「Get Wild」「春よ、来い」「残酷な天使のテーゼ」など枚挙にいとまがない。

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